子供のしつけに体罰は必要か否か?

はじめに私の考える体罰とは、日常的に繰り返される精神的にも肉体的にも苦痛を与える罰ではなく、よくあるお尻を叩いたり、頭にげんこつをしたりする範囲のことです。体罰というと、なんとなく違和感や語弊を覚えるのですが、私の場合は、子供を叱る上での方法の一つとして考えています。そもそも、子供に一度も手をあげたことのない親なんているのでしょうか?

子育てにおいて、子供のしつけに体罰が必要か否か?と言われたら、日常的な体罰は要らないけれども、命の危険を伴ういたずらや、そうせざるを得ない状況が起きたら、体罰を与えてしまっても仕方がないのではないかと思います。さらに感情的に叱ってしまう時だって、親である以上、あると思うのです。
親だって人間ですから、完璧な理想を振りかざし、常に完璧な行動が取れるはずなどあり得ません。

忘れられない次男の迷子

次男の2、3歳の頃は、兎にも角にも手を繋いで歩くことを嫌い、一人で自由に気の向くままに歩くのが好きなタイプの子でした。いくら私が「危ないから手を繋ごうよ」と促しても、首を縦に振ることなく、ふらふらと自由に歩いていました。次男のそういう時期で、今でもぞっとするくらい強烈な記憶として残っていることがあります。

その日は家族4人で買い物に出掛け、眠くなってしまったお兄ちゃんは私とスーパーの車の中で待ち、次男と夫が買い物に行くことになりました。夫が店内をいつものようにちょろちょろとしていた次男を視線の中に入れながら、レジで会計を済ませる際にお代を支払うことに手間取っていた隙に、次男は店を出て居なくなってしまいました。
夫は車で待つ私の元に血相を変えて走って伝えに来て、大慌てで二人して周辺を探し周りました。再び店内をくまなく探しましたが居ませんでした。ただ事ではない私達の様子を見た散歩中のおじさんが「もしかしたら、子供を探しているの?それだったらあっちでふらふらしている子供がいたよ」と教えてくれました。
そのおじさんが教えてくれた方向には、車の往来が激しい大きな通りがあります。次男は未だ交通ルールなど全く理解していなかったので、その通りに飛び出してしまったら間違いなく車に轢かれてしまいます。
次男の身に何かあったらどうしよう、と上手く走ることが出来ないくらい心臓をバクバクさせて向かったところ、大きな通りに面したマンションの玄関のところでウロウロしている次男を見つけ、力が一瞬にして抜けて行ったのを今でも覚えています。その時は夫が次男に思い切りげんこつを食らわした記憶があります。

きっと優しくぎゅっと抱きしめて「ひとりでお店を出て行ったら、こうやって迷子になってしまうんだよ。だからこれからは手をきちんと繋いでいようね。」と諭してあげることが出来れば、迷子でパニック状態だった次男の心にも届いたのかもしれません。
でも、夫としては、次男が見つかった安堵感でホッとしたのと、いつもちゃんと手を繋がないからこんな事になるのだという怒りと、とにかく感情的になり、言葉で叱るよりも先に思わず手をあげてしまったのだと思います。

私も見つかった安心感から、叱る役目は夫に任せて、散々お父さんから叱られた後で泣きじゃくった次男の気持ちのフォローに回りました。こういう時に冷静に子供に話せる親は一体どれくらいいるのでしょうか。私は結局うまく言葉が見つからず、泣きじゃくる次男をぎゅうっと抱きしめてあげることしか出来ませんでした。それくらい、私も迷子になった状況に、心がざわついていた為でした。

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小学1年生の長男は超繊細かつ超慎重派、年少の次男は活発で元気いっぱい、という正反対の性格の兄弟を子育て中のアラフォー主婦。子供たちに挟まれて眠る時と、家族みんなで食卓を囲む時が何よりも幸せです。