最近は、テレビでもインターネットでも「発達障害」とう言葉に触れる機会が多くなったと感じています。と同時に、少し人と違う発言や行動が見られるだけで、「発達障害なのではないか?」と直接言われたり、思われたりする事も増えてきているようです。
「発達障害なの?」と言われるということ
「もしかして発達障害?」と聞かれたり、「あの人、発達障害なんじゃない?」という会話になったりすること、あるのかもしれません。
「発達障害」という言葉をどのような意味合いとして使っているのかは、人それぞれ違うと思うのですが、発達障害という言葉を使うこと=差別、と感じてしまっている人にとっては、いい意味ではないことは確かですね。
もし、周りと同じような行動がとれ、言動が見られれば、発達障害なのではないかという疑問自体、起きないのかもしれませんが、そもそも、「周りと同じような」という定義や概念自体がアバウトな固定観念で出来上がっていると私は思うのです。
では、この「発達障害」という言葉を「天才」に置き換えてみます。
「もしかして天才?」「あの人、天才なんじゃない?」
「天才」と言われたり表現されたりする事で、差別を感じる、という事はあるのでしょうか?おそらく嫌味を外せば、ほとんどの人が差別されているとは感じないでしょう。
むしろ、うれしい気持ちを持ったりしませんか?その違いは、一体何なのでしょうか。
差別と偏見
私にとっては「発達障害」=「天才」という図式が成り立っているので、発達障害と言われる事は、天才と言われている事と同じだと考えます。
その事に対して、うれしいとも嫌だとも思いませんし、差別を受けていると感じることもありません。
定型発達の人より発達が遅れている事で、本人や周りで接する人の困りごとは多々あるでしょうが、遅れている事が悪いとは思っていないので、言われたところで差別されているという感覚がないのだと思います。
私には確固たる「自分軸」というものが存在します。何事も判断基準が他人軸ではなく自分軸なのです。考えも行動も全て、自分軸で動いています。
なので、一般的に大多数の方達が同じ意見を持って行動したとしても、私の自分軸の考えからはずれていれば私は賛成も同意もしません。
他の人が許されているのに、いい対応を受けているのに、なぜ自分は同じような対応をしてくれないのか、そう思う気持ちを伝えるために、批判したい、形にしたいという表れが「差別」とう言葉として表現されているのではないか、と私は考えます。
言い換えれば、自分も同じような対応をして欲しいという事ですね。それが、楽を出来ることなのか、何らかの特典がもらえるのか、望み通りの待遇をしてほしいのかは人それぞれであり、そこに決まった形はありません。
差別や偏見に対しては、人が成長していく中での環境や社会が作り上げたイメージなどが固定観念となっていくのかもしれませんが、その1つ1つの事に対し、「自分はどう思うのか」という意識があるかないかで、見方や感じ方は変わってくると思います。
発達障害の人達が求める配慮であっても、行き過ぎた配慮になればそれは健常者から見たら「差別」ととらえる人もいるでしょう。
長男は、書き写しが苦手で、ドリルなどからノートに練習するたびに違う漢字へ変わっていくために、担任の先生が書き写す作業をなくし、個別でなぞるだけのプリントを作ってもらっていますが、これも差別だと訴えるクラスメイトがいれば、配慮も差別の1つになり得ますから。
差別をする人の心理を知ること
結局、差別的な見方をする事で、自分が優位に立ちたいとか、自分の不当な現状を差別という言葉で訴えたい、という欲求が根本にあるのでしょう。
自分と周りが違う事、それは発達障害であれ、健常者であれ、何を同じと感じ、何を違うと感じるのかは個人差がありますが、その「違い」を「差別」と呼ぶならば、生まれながらにして全く別の人格を持って生まれてくること自体も差別になるのではないでしょうか。
極論ですが、差別を根本からなくしていくのであれば、容姿を含め、体力・気力・能力・人格など全て同じ状態で生まれてくる事から始めなくてはいけなくなりますよね。
男女間の違い、人種の違いに始まり、これまで社会的にも問題になってきた様々な差別。差別であると訴えることで社会は変わってきましたし、これからも変わっていくきっかけとなるでしょう。
これは1つの問題提起の表れだとも考えられます。
それは個人の違い、社会の違い、国の違いなど様々な違いを受け入れ、認めていく事が出来れば、差別という言葉で訴えていくのではなく、より良い社会を前向きに発展させていくための1つの提案に変わっていくのではないでしょうか。
おそらく、いじめ同様、差別がなくなっていく事は考えにくいような気がします。どちらにしても共通しているのは、する方、される方の考え方1つで変わっていくという事です。
ただのきれいごとに聞こえるかもしれません。しかし、極論で、全人類が、個人の違いを受け入れ認める事が出来たとしたら、他人と比較して起きるいざこざ、複雑な感情による被害、差別偏見、いじめ、そういったものが減っていくことは確実だと思います。
私個人の自分軸での考え方になりますが、まずは差別を訴える前に、自分には何が出来るのかをしっかりと考えて、深く掘り下げていく事で、少なくとも自分の未来を変える事は出来るのではないでしょうか。
それが社会に広がれば、差別のない社会に変えていく事も、夢ではないのかもしれません。