長男はその場の空気を読む事が出来ません。相手の気持ちを察する事も出来ません。ですので、その場その時の行動や言動が浮いてしまうような事は日常的にあります。
反対に次男は(発達検査をした所、今時点では健常児の仲間です)空気も顔色も読めるし、相手の気持ちを察する事も出来ます。
よく、子供を育てる際に、「あなただったら嫌でしょ。」など、相手の気持ちになれる事を前提に相手に言ってはいけない、やってはいけない事を教える事があると思いますが、相手の立場も気持ちもわからない長男に、その方法は通用しません。
ある時、私が次男を怒った事がありました。
私がなぜ、次男を怒ったのか、どうなってほしくて怒ったのかわかる?という私の問いに対して、次男は正確に答えました。
それを傍で聞いていた長男は、「次男は本当にすごいなぁ。なんでママの思っている事がわかるんだろう。僕には全然わからない。」と言いました。
と、心から感動していました。
「僕も空気を読んでみたい。」
その時に長男の言った言葉です。
とても切なく、いたたまれない気持ちになりました。
コミュニケーションに苦手さがあるという事
実際、コミュニケーションに苦手があるという事がどういう事なのか、とても説明しにくい所です。大人になっても空気が読めない人はたくさんいて、その場にそぐわない言葉を発して冷たい視線を送られている事にすら気づかない人はいると思います。
そのすべての人が発達障害だとは思いませんが、コミュニケーションとは空気感を感じる力が最低限必要なのではないかと私は思っています。
ただ、自分の思っている事をうまく伝えられない、相手の思っている事がわからない、だけではない、空気感の中にある何かを感じ取り、相手の事を考え、コミュニケーションがうまくいくような気がします。
長男の場合ですが、実際にあった話です。
放課後、その日は遊ぶ友達がいなくて、私が長男の虫とりに付き合い、一緒に公園に行きました。夏の事です。
公園に向かっている途中、友達とすれ違い、声をかけられました。
「おう!どうした?」
これに対し、長男は、友達をずっと見続けたまま、通り過ぎるまで一言も発する事なくすれ違ったのです。
私もびっくりしたのですが、その時は私が代わりに、
「虫とりに公園に行くんだ。またね。」
と返しました。
通り過ぎた後、長男に、なんで何もしゃべらなかったのか聞いてみると、
「ぼく、どうもしてないから。答える事ないし。」
と言いました。
この場合の「どうした?」は、「どこに行くの?」とか「何をしているの?」という意味だと私は解釈しました。
ですので、そのように長男に伝え、「虫とりに行くんだ。」とか、「公園に行くんだ。」って返せば良かったんじゃない?とアドバイスしましたが、逆になんで?と聞かれてしまいました。
将来への不安
まず、声を掛けられたら、言葉を返そう。何でもいいから。「おう!」だけでもいいし。
とその場では話し、公園に行きましたが、先々がとても不安になりました。
今はまだ、小学生だから相手もいちいち気にしませんが、高学年になり、中学高校になると、今の長男のコミュニケーション能力では明らかに友達がいなくなるのでは、と不安になりました。
実際問題として、これからの未来、友達関係が難しくなってくるのは否めないでしょう。
私も親として覚悟はしています。
その時がきたら、一緒に解決できるよう、また長男の負担が減るような対策や行動を起こしたいと思っています。
こういう、ほんのちょっとした事ですが、これがまさに発達障害だなと感じる事です。
今回のこの出来事を次男に話した所、「気持ち悪いっ!」と言われてしまいました。
何もしゃべらず、じっとこちらを見て通り過ぎる人がいたら、確かに気持ち悪いですよね。
何なんだ??と私も思うと思います。
本当にわからないという事
しかし長男に悪気はないのです。
本当にわからないだけ。だから私がアドバイスをしたり、次男が感じる事を言ったりすると、空気が読める事ってすごいんだな、と長男には感じるようです、。
だからといってわかるようにならないのも発達障害。
残された道は、人の顔色や言葉の端々から状況を把握するしかありません。
経験を積んで、パターンを覚えていく中で、少しずつ何か気づいていく事があれば対応策を考えていく事が出来るのかもしれません。
長男はよく、全く知らない人達がたくさんいる所に行くのは嫌だといいます。
例えば、習い事をしている将棋の大会で、知らない子供達がたくさんいる中で、初対面の人といきなり将棋を指すこと、人がたくさんいる電車に乗る事、クラス替えやキッズスペースなどです。
これは、空気感が全く読めない上に、言いたい事もうまく話す事や聞くことが出来ない長男にとっては、これ以上ない位、居心地の悪い所なのかもしれません。
ちょっと聞いてみる、ちょっと声を掛けてみる、といった何でもない事に私では想像のつかないくらいの労力と勇気と不安が入り混じっているのでしょう。
今、私に出来る事は、出来るだけその場に適していると思われる発言や行動を教えていくだけなのかもしれません。