発達障害であることを言い訳にしないで生きていく方法

発達障害である長男の子育てを長年やっていると、特性を受け入れているようで意外とわかっていない側面が未だに多々ある事に気付かされます。
本で読む特性と言われているものと同じようなことは長男にも起きるのですが、そこはやはり生身の人間。当たり前ですが人それぞれ違うんですよね。
接する私としては、ある程度枠にはまっていてくれないとわからなくて、少しずつズレていって、何か問題が起きてしまう。起きてしまってからではないと気づかないのでは遅いのかなと思います。

‘わからない’ということ

発達障害の特性がある人には、様々な種類の‘わからない’があります。
例えば、話をしていたら突然相手の人が怒り始めた。指示されたけど何のことなのかわからなかった。言われたことをやってみたら「違う」と言われた。約束していたと思っていたのに、相手は約束したとは思っていなかった。など。
相手の顔色やその場の空気感がわからずに、相手に失礼なことを言ってしまって怒らせてしまったり、言われていることはわかるけれども、独自の思考回路で違う方向のことをやってしまったり、話の趣旨を理解できなかったり。
全て、特性からくるものだと考えられますが、相手にもまた、特性によって理解できないことがわからないので腹がたつし、何度言ったらわかってくれるのか嫌気がさしてきますし、理解できないと思われてしまうのだと思います。

長男の‘わからない’とは

長男にも特性による‘わからない’がたくさんありました。
それは幼少期から始まります。
長男はスーパーなどのお店に行くと、横目で走り出していました。当然、親としては止めさせますよね。人にぶつかるし、陳列している商品を壊してしまうかもしれないし、周りも目もありますから。「店の中を走らせるなんて、一体この親はどういう教育をしているんだ」と思われても当然です。
しかし長男は何度言っても走ります。その時は一瞬止めても、しばらくするとまた走りますし、次に店に行けば走りました。言っても止めてくれなければ怒るしかありません。私は何度も何度も怒りました。店の中でも怒り、店の外に連れ出しては怒り、しまいには買い物に行けなくなりました。また走り出すであろう長男がわかってくれない事に怒る気力もなくなり、周りの目も気になりました。迷惑になることを恐れました。
長男は、ただ走りたかっただけなのです。スーパーなどの商品がたくさん並んでいる所を横目で見ながら走ると、いろんな物が超高速で過ぎ去っていく様を楽しんでいたのです。相当面白かったのでしょうね。目に入るものが興味のあるものであると、見ずにはいられない。面白いと思うことをやってみたいと思うと止められない。
ADHDの衝動性が強い長男は、幼少の時から今でも、この衝動性での困り感を抱えて過ごしています。

‘わからない’が引き起こすもの

なぜ、自分は怒られるのか、意味がわからないまま怒られ続けた長男。今でこそ話ができるので、「やっぱり怒られる理由がわからない」と話してくれますが、まだうまく話せなかった3年生くらいまでは、怒られ続けました。こちらの説明は理解できないまま、またわからないまま、長男は怒られました。
衝動的に次々に興味が移っていけばいくほど、怒られる回数は増えていきます。
宿題をやらなければいけないのに、今目に映ったものを取ってみたら面白くなってきて止められなくなった。宿題をやらなければいけないことはわかっているのに、どうしてもアニメのキャラクターの絵を描きたくなってしまって描き始めたらやめられなくなった。宿題をやらなければいけないのに、、、、と延々に続き、お風呂の時間、ご飯の時間、寝る時間になり、宿題は終わらず、明日の準備も終わらず、やることばかりが溜まっていく一方で何も終わっていない状況にまた怒られる、という、どう考えても悪循環が繰り返されていくわけです。
やればできるのにやらない。後回しにしないで先にやればいいのにやらない。と大人から見れば単純な話なのに、目をそむけたくなるくらいやらない長男に怒りがフツフツとわいてくるのです。
興味のあることをやっているだけなのに怒られる、おもしろいと思っていることをやっていただけなのに怒られる。長男にとってはどう考えても負の要素ではないわけです。そこに納得がいかないのに怒られ続けると、確実に二次障害になりますよね。
自己肯定感はどんどん下がり、怒られ続ける自分はダメな人間なんだ。どうせ自分は何も出来ない人間なんだ。くらいに悲観的になってしまっても不思議はありません。
そうやって発達障害の人達の二次障害は作られていくんだなと私がわかってきたのは最近です。

接する方も‘わからない’と戦っている

支援したい、配慮をしたい、理解してあげたい。そう思って発達障害の人と接している人、親子の関係であれば必然的に関係を持たなければなりません。
発達障害の人本人もたくさんの‘わからない’と戦っているのでしょうが、接している周りの人達もたくさんの‘わからない’と戦っています。1人1人の特性が違うことや環境の違いが掛け算になって、さらに‘わからない’は増えていきます。
しかし、人は社会に出て働かなければなりません。食べていかなければなりません。1人では生きていけない。誰かを支えて支えられて生きている。
なので数々の‘わからない’はみんなにあるのです。
発達障害であってもなくても、お互いのことを分かり合えるかどうかは‘わからない’。
発達障害の人達が‘わからない’ことはきっと相手も‘わからない’を抱えていると思うのです。
「発達障害の人は言い訳が多い」などと言われてしまうのはとても寂しいことです。言い訳でもして自分を守らないと‘わからない’不安を打ち消して、明日を過ごしていく気力がわいてこないかもしれませんよね。
「発達障害だから」わからなくていいわけでもなく、失礼なことを言ってもいいわけではなく、指示がわからなくていいわけでもなく、自己解釈して違う仕事をしてもいいわけではありません。それはただの「言い訳」。わからないならどうすればいいのか。対応を考えてスキルを身につけていくのです。相手の人も同じく、対応を考えスキルを身に付けていけばいいのです。
自分が出来ることと出来ないこと、勘違いしてしまいやすいことや間違いやすいこと、とにかく自分をよく知ることが一番大切だと私は思っています。そして相手に伝えること。伝え続けていくことが出来れば、言い訳は必要ありませんよね。

ABOUTこの記事をかいた人

2人の男の子を育てている主婦です。(現在小4と小1) 長男が発達障害のため、ちょっと変わった子育てをしています。 今年から次男が小学校に入ったので、少しずつ自分の時間が持てるようになりました。 そんな私のちょっと変わった子育てのお話を紹介致します。